しあわせへの助走

生きていて感じたことを気の赴くままに書いていきます

軋みながら廻る世界の話

久しぶりに人前でみっともなく泣いてしまった。 

時折、発作的に言葉を吐き出したいと思うことがあって、それは心の膿んだ部分をきれいにしたいということなのだ、と思うけれど、誰構わず話していいことではないので躊躇していた。それに反射的に吐き出したいと思っても、上手く言葉にできなくて、それが原因で心の中で回遊して淀みの原因となっていた。そこがまた新たな膿になる。

 

私は、その人といると、なぜかその膿んだこころの部分を吐き出したくてたまらなくなって、それはなぜなのか考えてみると、私の感性の問題かもしれないし、相手もそれを求めてノックし続けているからかもしれない。そのまま流れて行けばいいのかもしれないけれど、その一方で、私には信じてたのに梯子を外されてしまった経験が何回もあって、それがしこりとなって引っかかっている。

そのしこりは、一般的な言葉に置き換えれば、心のくせだ。普段は気付かないところにあって、ふとした時に出現する。私には、ただただ煩わしいだけで、出現しては苦しめられるので、どうやったら無くなるのかを考えていた。しこりはだいぶ小さくなって、引っかかりは少なくなった。少なくなったけれども、捩れたくせは一筋縄ではいかない。

私はあまり好きなものを好きだと主張したがらない。勿論聞かれたら答えるし、主張することもあるが、基本しどろもどろになりがちだ。それは話す相手にとってどうでも良いのではないか、という怯えだったり、鬱陶しいと思われるのではないか、と考えてしまうからだ。特に嫌われたくない、好きな人たちに自分の話をするのは緊張する。緊張して何も考えられなくなることはしょっちゅうだ。そうやってしこりは露出する。

例えば何の気なしに、このまま流れていったとしても、離れがたくなって辛くなるだろう。冷静で居られない自分が発生してしまうのも、とても怖い。その辺他の人は、どうやってやり過ごしているのだろう。できている人は多分なぜそんなこと考えるのかが不思議だと思うが、私には不思議で仕方ない。

私は前に比べれば、中庸できるようになったし、その自分を信じてみたい気もする。

 

なんでこんなに悩んでしまうんだろう。

もうちょっと気軽に考えられる人に生まれたかった。

 

小説:雲とわたし

カランカラン。甲高い音が店内に響き、店員に来店を告げる。私はお気に入りの窓際の席へ案内された。カウンターになっていて、目の前に大きな窓がある。3階だから、街を一望できるとは言えないけれど、駅前にうごめく人の流れを上から眺めるのはちょっと気持ちがいい。今日は雨で、色とりどりの傘が踊るように流れていく。ちょっと落ち着くと、iittalaのグラスに入った水とメニューを差し出される。カフェラテとケーキを注文してイヤホンをつけて外界との接続を遮断する。

ぼうっと、グラスの水と光が当たってできる色付きの影(今日はグリーンだ)を見つめる。こういう時は、本を読んでも別のことに気を取られて頭に入ってこない。

 

それは雲を掴みにいくような恋だった。近づいても遠ざかる気がした。それでも一生懸命走って走って、ずっとそれを追いかけていた。時々姿を変えてふっと霧となって近くにやってくるものだから、私の髪が霧で湿って余計に煽られた。やがて走っても近づけないことを悟ると、私は翼を得ようと画策する。なんとか翼を得て飛んでいくが、飛んでも飛んでも、憧れ、求めていたものは雲でしかなく、また私の身体を湿らせるばかりでつかめないのだ。それでも飛び続けると、やがて空を突き抜け、大気圏へ突入していた。気が付いたら濡れていたはずの身体も蒸発して乾いている。今の私にあるのは、その人を求めて得た翼と幻想のような思い出だけ。

得られた翼は見るたびに切なくなるので、見ないように使わないように錆びさせているけれど、あるものをなかったことには出来なくて苦しくなる。もう思い出したくない、って私は泣くけれど、思い出しては存在を確認するかのように吐き出したくて、忘れるなんてできっこないのはよく分かって居るのだから、ただめんどくさいずるい女だ。

そして、私の中で幻想のような思い出に生きるあの人はきっと、本当のあの人ではないのだ。だから、ふと本当のあの人に触れた時に私はひどく困惑する。幻想の中の思い出はいつも綺麗で、夢のように私をくすぐってくる。それはとても心地よくて、ずっと浸っていたくなってしまう。

 

イヤホンの耳栓に雑音が入って現実に戻される。カフェラテのにおいが脳まで届いて、陶酔から目が覚めた。イヤホンの向こう側で、店員さんのごゆっくりどうぞ、という声が聞こえてきたので私は会釈をする。

私は、出てきたカフェラテとケーキを少し味わい、長い深呼吸をすると、ようやく本を取り出して読み始めることにした。

 

春の病

季節の移り変わりを感じる。

南側から吹いた風が暖かさを運び入れた。段々と暖かくなってきて、気持ちも身体も上がってくる。風はどこから吹き始めてどこまで行くのか。

その風が私に春を教えてくれる。

ふわふわする。

 

久しぶりにファッション雑誌を買った。

お目当ては付録のコスメだったのだけど、いい色合いで、テンションが高まる。

最近、女の子たちがSNSで、各々購入したコスメや服の報告をしていて、私もどうしても何か欲しくなった。冬で寒くて凍えてたから、毎日仕事で頑張って疲れてるから、抱きしめてあげたくなった。そんな言い訳をして甘やかしたから、今日いまこの瞬間を、ちょっとワクワクして生きていられる。そうやって自分を守っている。そういうことの積み重ねが、私を作っていく。

いやというほど、それを自覚しているからだろうか、口座残高とにらめっこすることが増えた。許されるなら、服もコスメも買いたい。もっとオシャレしたい。でも常識的な大人ならば、自分の支払い能力を越える買い物はしないし、いざという時の貯えも必要だ。そんなせめぎ合いをする毎日。お金がなくて困っているというよりも、物欲がありすぎて困っているのだ。そこがゴールではないのに。

 

春だから、頭が浮かれている。今までできなかったことも、今ならできる、そんな気がしている。ちょっとの不安と、期待感が入り混じって、空に飛んでる。最近、妄想彼氏の出番が多いのもそのせいだろう。

一緒にテレビを見て笑いあったり、一緒に料理をしておいしいって言って食べたり、朝起きた時におはようって挨拶して、ふとんから出たくないねって言いあって、ちょっとイチャイチャして、しぶしぶ布団から出て仕事行ったり。そんなのびのびした、ささやかな幸せを積み重ねる妄想ばかりだ。

 

全部春のせいだ。暖かくなって、越冬した種がちょうど勢いよく芽吹くように、私の感情や思いや欲望が全部、勢いよく噴出していく。

そんな春の病。

きちんと、生きること

ちょっと遅くなりましたが、引っ越して3ヶ月がたちました。

今月は、体調を崩して寝込んだりして、目先のことにとらわれすぎて悪化させたりしてしまいました。

冬や引っ越しの疲れ、仕事の負担増などが重なって、実家にいた時から気になっていた部分が気づいたら悪くなっていたようです。

実は今もいい訳ではなくて、収まっているだけなので、早く大きい病院で診てもらわないといけない状況です。恐らく、生活指導だけだとは思うのですが、早く安心したい。今までの生き方は、体調面も含め無意識的に自分を大事にできてなかったんだ、と思ったので、これからは気をつけないといけないと思っているところです。

 

私の、記憶のないくらい小さい頃の夢が、キャリアウーマンになること、と明言していたらしいのですが今の私は、小さい頃に想像していた私とはだいぶ違っていて、産まれたての子鹿のように脚をプルプルさせながら自立しようとしている、そんな感じがします。幼い私にとってのキャリアウーマンとは、自立した女性のイメージで、仕事はもちろん、私生活も充実していて、もっと地に脚つけて輝いているものと思っていたのですが、現実はそうでもない…。傷があっても、素知らぬ顔で、人生を謳歌し、輝いている女性になりたいです。

 

まだまだ、生活のペースが掴めなくて、いろいろ試しているのですが、根本的な体力のなさが原因で上手くいかないことも多いので、ちょっとした運動でも始めたいなと思っています。

あと、春だし、恋もできたらいいな、とは思うのですが、自分のメンヘラ具合に相手を付き合わせてしまうことに躊躇してしまうので、あんまり深い関係にならず、生きるモチベーションとしての恋がしたい、と思っている次第。

現状、他にもやりたいことは色々あるのですが、どう表現したら、どう押し出したら、わたしのやりたいことは叶うのか、よく分からなくて、本当はもっと上手く色々発信していきたいのに、力不足で表現できずにいて、とても歯がゆいです。でも、多分そもそもの、わたしのビジョンがぼやぼやしているのだ、とも思うので、もっとその辺の考えを深めていきたいな。

 

それはまやかし、あるいは強い思い込み

テレビが届いた。信じられないほど薄い板に色とりどりの景色や、情報が流れてくる。

最後の最後でLGかシャープか迷って、LGはhuluの視聴用アプリの更新やめるからやめた方がいいよ!といわれたので、シャープを買ったらシャープも5月くらいまでで終わってしまうらしい。チーン。

本当は、物を買ったところで収まらない虚無感だと分かっているのだけど、どうせ買うし、と思い切って購入に踏み切った。私はそもそも、テレビをそんなに見る習性がない。チャンネルを一通りぐるぐるして、行きついた先はyoutubeで、ずーっとモー娘。の動画を見ていた。まーちゃん早く帰ってきて、まーちゃん…。

今朝はニュースを見た。久しぶりに外界とつながった気がした。朝ご飯を食べて、そんなに時間が有り余っているわけではないけれど、10分くらいぼーっとテレビを見ていた。気づいたら時間が吸い取られているテレビこわい。途中でチャンネルをかえたら、同じ内容のニュースをやっていたのだけど、肝心なところでちょっと意見?解釈?に違いがあって、どちらが本当なのか分からないまま、家を出た。

仕事中は、基本的に作業はしているけれど、頭の中は暇なので、なにか全然違うことを考えていることが多くて、今日は昔の自分がどんな人だったかを思い出すのに忙しかった。

私の存在自体がいるのか怪しい、そういう不確かな思いを抱きながら生きていた。もう10年以上も前の話なので、厨二臭いのは許してほしいのだけど、その本質は、産まれていなければよかったのに、という存在の否定で、だけど私にはそう思うくらい自分という存在が危ういものだった。なんなら存在しているのかしていないのか分からない幽霊と同じだったのかもしれない。そんな危うい自我から、自分を少しずつ、今も練習中だけど、手繰り寄せていく作業を繰り返すうちにだんだんと自分というものが分かってきた、その過程。

こういうことを書くと、心配する人もいると思うんだけど、本気で自分を見失っているメンヘラな状態というのは、こんなに冷静に客観視なんかできないし、こんなこと考えたら、マイナス方向に引きずられて、簡単には戻ってこれない。私はまだ、自分を幸せにするため出来ることはあると信じているし、やりたいことも山積みだ。

だからまだ大丈夫だと思う。