結局自分がかわいい
私はよくツイッターで、自分の感情を観察してつぶやいている。
正直、周りの人から見たらあまり面白くないと思う(自覚はある)し、見てくれている人は多分renという人間がじわじわ行動して変化、成長を遂げている姿を面白がって見てくださってるか、オフで私のツイッターがつまらないとは知らず、相互フォローの関係になってしまった人だと思う。(ありがとうございます!)
言い訳だけど、そんなことやってるのは、自分の感情を見失わないようにするためだ。(それでもだいぶ見失うことあるけど)
そんな私が最近考えているのは恋愛のことだ。
定期的に私の中で議題に上ってくる。
最近気になっていた人はいたのだが、政治的理由により疎遠になってしまい、連絡先は聞けたものの、ちょっと距離が開いてしまいテンションが下がってきた所である。
私の場合、付き合うとか恋人が居ないと嫌だとか困るとか、そういう、どうしても恋人がほしいわけではないけれど、恋はして、日々の楽しみを見出して居たい派だ。単純に楽しく気軽にドキドキできるのは非日常感を味わえる。ただ付き合うとなると話は別で、その楽しさが増幅しない関係はいらないと思っているし、できるだけ面倒なことは避けて通りたいと思っている。
私にとっての面倒なこととは、すごいでしょ!褒めて褒めて!っていうアピールだったり、コミュニケーションコストがかかることだったりする。
友達としての距離を保ったままなら、べつにいくらのってもいいし、解決のために力を貸すことも厭わない。それが面白いとも思えるんだけど、恋人として、楽しく過ごすにはしんどいな、と思ってしまう。
じゃあ、私はどんな人が好きなのか。好きというのはかなり曖昧で不安定な感情だと思うが、その辺も色々勘案して考えたら、私は気づいてしまった。
私は、私がもうひとり居たらいいと思ってるのではないか、と。
それを考えると私は私という人間の考えていることがとても恥ずかしくなってきたし、実は、同じように、仕事するときも私がもうひとり居たらいいなと思いながら仕事していた時期があったのもあって、私はなんだかんだ言いながら自分が大好きで仕方ないんだな、と思った。
何故そういう結論に至ったのかというと、私と似たように仕事が好きで一生懸命やっていて、趣味を持って自立している人なら、話してるだけで刺激があって楽しそうだし、安心感もあるしどちらかが元気がないときに、もう片方が寄り添って側に居てくれそうだな、と思ったからだ。
恋人や配偶者のいるひとは、多分相手を大切にしたいと思っている方が大半だと思う。だけど、恋人や配偶者が、意図するしないに関わらず、恋人や配偶者を傷つけ、傷つけられてしまうこともあるのではないか。それ自体は、お互いの価値観が違うということだから折り合いをつけていかないといけないことなのだと、頭では分かっているし、大切なことだとわかってもいる。
ただ、今は自分が未熟すぎて、それが上手くできる気がしない。そういう子供っぽい思いの結果が、もうひとりの私と付き合いたい、ということなのだと思った。
以上です。