しあわせへの助走

生きていて感じたことを気の赴くままに書いていきます

セクハラ、所感。

自分の感情を深く掘り下げて感じたことを書く練習をしないと、このまま私という人間が海の底の方を漂って眺めているだけになりそうなので、練習がてら書いていきたいと思います。

 

ここのところ、上司からセクハラを受けている。触られるとかではなく、言葉のセクハラだ。上司は既婚のオッサンで、私の親と同年代ぐらい。勿論恋愛対象と思ったこともない。

それは本当に急に始まって、今度一緒に温泉行こう、と言われたのが始まりだった。最初に聞いたときは聞き間違いかな、と思って聞き直したがあっていた。何言ってるんだ?と怒るでも悲しくなるでもなく、頭がボーッとして考えられなくなる感じがした。普段から、冗談と会話の掛け合いを楽しんでいた私だったが、その時頭の中でエラーが起こってなんて言っていいのか分からなくなった。

なんというか、予想外過ぎて何と返したらいいのかよくわからなくて、私はもともとあまり自分の気持ちをそのまま感じる、ということが本当に苦手で、正直この件も自分の感情との折り合いがつかないというよりは、本当は人に相談する方がめんどくさくて、でもこのまま放置したら現実的にあらぬ疑いをかけられたりして迷惑になるな、という、論理的な路線の方が理由として強くて、今でもあなたはそれでどう思っているの?という問いには、多分うまく答えられない。無意識的に、相手に合わせようとしてしまうからだ。それは、親との生活をしながら生きていくための知恵として身に着けざるおえなかったもので、そこが今の私にとっての自分らしさに繋がっているんだと思うので、あまり無下にもしたくない。(そしてこれは自分の思考にオートで入ってくるので調整できない。だから本当はちょっと調整はしたい)だけど、私はうそをつかない(ようにする)ということと、最近は、自分を大切にするということも、信条としていて、上司の要望にはかなられません。その結果のエラーという自動演算システムの結果なのである。こう考えると、私は自分の感情がますます分からなくなって、なんというか、もっと普通のもっとエモくてふわふわした、感情を揺り動かされるような、文章なり漫画なり絵なりデザインを生みたい、私だってもっと周りの人から憧れてもらえるような人になりたいし、だけどどうしたらいいのかよくわからなくて、自分で気の赴くままに書いてしまったカオスな文章を未整理のまま残しておきます。

 

或る土曜日の朝

外は容赦無く風が吹いていて体温を奪われる。駅から家までの道のりが遠く感じた。私は早歩きと小走りの中間くらいの速さで足を進めているけど、一向に体温は上がらない。

暗い部屋に飛び込むように帰ると、先程までの寒さからは一転、少し暖かさを感じる。ちょっとホッとしてからは、コートも服も脱ぎ捨て、部屋着に着替えて顔を洗う。クレンジングゲルは暖かくて、こんな時期のめんどくさいメイク落としの憂鬱から救ってくれる。洗い流す水は冷たくて、オールした後、メイク落としで開いた毛穴を収縮させようと頑張っているのが分かった。タオルは柔らかさを感じるためにただそこにあるだけだったが、顔の水分を拭き取ったせいで濡れて柔らかさを失った。

寒さのせいか、あんまり眠くは無かったのだが、とりあえず電気を消して布団に入る。ぬいぐるみのカピさんを抱き寄せて、寒い布団の中で体温を共有した。

 

私にとっての一人暮らしは自己肯定感を高める作業

 

引っ越ししておよそ2か月がたちました。

本当は1か月の時も記録に残しておこうと思っていたのですが、年末年始で仕事がバタバタしたり、休みになってのんびりしたりしていて、気づいたら書くタイミングを失っていました。なので、ちょっとまとめて書いておきたいと思います。

大体一通り必要なものもそろってきて、結構快適に過ごしています。

今欲しいのはテレビとPS4くらい。あったらいいな、と思うのは電子レンジでしょうか。どれもなくても困らないのですが、あったら今より快適で、楽しいだろうな、と思います。普通にゲームしたいし電子レンジで料理を楽にしたい。

前よりも通勤の時間が短くなり、ストレスがガクッと減りました。嫌いだった親の元を離れたせいもあるかとは思いますが、引っ越した当初は私の人生の幸福度としては、過去最高でした。私はストレス耐性が低くて、ストレスにさらされるとすぐ体調が悪くなるのですが、最初のひと月は体調の悪さを微塵も感じませんでした。年明け急に部署の人が異動となり、おととしに体調が悪くなった原因の仕事を任されることに。また現在進行形で二足の草鞋を履かされており、それがものすごくストレスです。ルーチンワークを淡々とこなしたり、工場のように決まったものを決まった形で作るような仕事は苦手で、自分の創意工夫でよりよくなっていく仕事の方が、精神衛生上よいようです。そんなこんなで波乱の年明けで、今もちょっと体調は良くないのですが、なんとか生活しています。贅沢言えば、朝きちんとおきて、弁当まで作れたら完璧だな、と思います。

 

 

自分の料理を、淡々とただただ記録していくブログもはじめました。オシャレな料理も、皿も載ってない、白い料理の画像がたくさんのっているブログだけど、今はあまり無理せず、飾り気ないありのままの料理を載せたい気分なのでそうしています。切り方も大きさがまちまちだし、色が白くてオシャレじゃないし、一応デザイナーを名乗っていてセンスのかけらも感じない画像を上げ続けるのはどうなの?と思うが、これは一枚一枚に価値はあまりないのだけど、ブログ=ページが増え続けていく本のような形で、まとめることに意味があると思っています。また人の家の本当の意味での家庭料理は見る機会があまりないので、そういうのがあってもいいかな、と思います。緩くやっていくのが気分とはいえ、あくまでも気分なのでやりきったなと思ったら方針を変えるかもしれないです。

 

元々メンヘラで、克服に役立ちそうな本を読み漁っていた時期がありました。たいていの本には料理はいいぞ、計画を立てて手際よく作業をする練習にもなるし、失敗したときにどこがまずかったのか考え、原因と結果の整合性がきちんととれるようになるので、克服に役立つと書いてありました。きちんとできたら結果としておいしいものが食べられるというのもいいですよね。

でも、私が一番料理をしていて良かったな、と思えるのは料理をして自己肯定感を得られることだと思いました。だれのためでもない、自分で自分のために丁寧に作ったものを美味しく食べる。私は今までの自分の人生、笑っちゃうくらい酷いなと思っています。親に小さいころから無意識の虐待をされたこともそうだし、そこを飛び出したくて結婚したこともそうだし、結局離婚したこともそうだし、そのあとの恋愛だって散々な目にあいました。実家に帰ったところで、私は一生懸命奨学金を返していたのに妹は親に払ってもらっていたりします。

そんな傷ついた私を癒し、自分は自分の為に生きていいんだ。大切にしていいんだ、と自分に訴え続けるのが自炊であり、私の一人ぐらしです。

一人で暮らしていると、料理以外にも様々な家事が発生しますが、それらも自炊と同じく、自分の感情を大切にする作業であり、それは私にとって自己肯定感を高めてくれているなと思っています。

 

あ~生きててよかった!

 

感想:この世界の片隅に

散々話題になってて、見たくて見たくて仕方なかったのに、チケットがとれずにいたけど、ようやくこの世界の片隅にを見てきたよ。

友達に、コミックス読んでから行った方がいいよ、と言われて読んだのだけど、その時からもう、結構泣かされていた。これは映画で見たら、どれだけ泣くか分からんな、と思って家にある一番分厚いフェイスタオルを持って行った。

私が一番印象に残って、かつ泣いてしまったのは、生活が営まれていた呉に爆弾が落ちたシーンだった。今までは、食べるものに困ったり、徴兵されたりすることで戦争しているという認識は持って見れていたのだけど、空襲で実際に爆弾が落ちてきて(しかもその爆弾がすごくリアルに描かれていて)街を破壊していく。街の破壊と、逃げ惑う人。私は東日本大震災を思い出した。懸命に生きている人たちをあざ笑うかのように街が壊されていく。勿論、細かい相違点はあるのだけれど、日常生活からの切断という意味では一緒だと思った。自分の意志とは関係のないところで、急に世界が変わってしまう。そして、それが人為的に行われたことも、本当に起きたことだから余計に怖いと思った。もしかしたら、私たちの明日もそうやって急に終わりが来る可能性もあるのではないかと思った。他にもショッキングなシーンはあったけれど、ここほどつらくぞっとするシーンはないと思った。

勿論、どちらがつらいという話ではなくて、戦争と震災それぞれ辛くて悲しい出来事なのだ。

 だから、なんだか、この映画は好きとは言い切れなくて、でも強烈に忘れられなくて、時折思い出すのだろうな、と思う。

映画の中で、右手を無くしてしまったことで絵が描けなくなったことを絶望するシーンがあったけれど、あの気持ちを、偶然にも、わたしも絵を描くことが生きがいだった時に、想像したことがあって、そのシーンでかなり感情移入してしまって、本当に辛かった。わたしには、とてもその後の人生をすずさんのように生きられないと思った。

 

この映画は、重い題材を、チラチラとひかる星のような明るさで、まとめ上げていた。内容も、見ていくとしんどいところがたくさんあったんだけど、辛くても直視していかないといけない、と感じるところも多くて、照らすほど強い光ではないかもしれないけど、指針となって導いてくれるようだと思った。

 

結局自分がかわいい

私はよくツイッターで、自分の感情を観察してつぶやいている。

正直、周りの人から見たらあまり面白くないと思う(自覚はある)し、見てくれている人は多分renという人間がじわじわ行動して変化、成長を遂げている姿を面白がって見てくださってるか、オフで私のツイッターがつまらないとは知らず、相互フォローの関係になってしまった人だと思う。(ありがとうございます!)

言い訳だけど、そんなことやってるのは、自分の感情を見失わないようにするためだ。(それでもだいぶ見失うことあるけど)

 

そんな私が最近考えているのは恋愛のことだ。

定期的に私の中で議題に上ってくる。

最近気になっていた人はいたのだが、政治的理由により疎遠になってしまい、連絡先は聞けたものの、ちょっと距離が開いてしまいテンションが下がってきた所である。

私の場合、付き合うとか恋人が居ないと嫌だとか困るとか、そういう、どうしても恋人がほしいわけではないけれど、恋はして、日々の楽しみを見出して居たい派だ。単純に楽しく気軽にドキドキできるのは非日常感を味わえる。ただ付き合うとなると話は別で、その楽しさが増幅しない関係はいらないと思っているし、できるだけ面倒なことは避けて通りたいと思っている。

私にとっての面倒なこととは、すごいでしょ!褒めて褒めて!っていうアピールだったり、コミュニケーションコストがかかることだったりする。

友達としての距離を保ったままなら、べつにいくらのってもいいし、解決のために力を貸すことも厭わない。それが面白いとも思えるんだけど、恋人として、楽しく過ごすにはしんどいな、と思ってしまう。

じゃあ、私はどんな人が好きなのか。好きというのはかなり曖昧で不安定な感情だと思うが、その辺も色々勘案して考えたら、私は気づいてしまった。

 

私は、私がもうひとり居たらいいと思ってるのではないか、と。

 

それを考えると私は私という人間の考えていることがとても恥ずかしくなってきたし、実は、同じように、仕事するときも私がもうひとり居たらいいなと思いながら仕事していた時期があったのもあって、私はなんだかんだ言いながら自分が大好きで仕方ないんだな、と思った。

何故そういう結論に至ったのかというと、私と似たように仕事が好きで一生懸命やっていて、趣味を持って自立している人なら、話してるだけで刺激があって楽しそうだし、安心感もあるしどちらかが元気がないときに、もう片方が寄り添って側に居てくれそうだな、と思ったからだ。

 

恋人や配偶者のいるひとは、多分相手を大切にしたいと思っている方が大半だと思う。だけど、恋人や配偶者が、意図するしないに関わらず、恋人や配偶者を傷つけ、傷つけられてしまうこともあるのではないか。それ自体は、お互いの価値観が違うということだから折り合いをつけていかないといけないことなのだと、頭では分かっているし、大切なことだとわかってもいる。

ただ、今は自分が未熟すぎて、それが上手くできる気がしない。そういう子供っぽい思いの結果が、もうひとりの私と付き合いたい、ということなのだと思った。

以上です。