しあわせへの助走

生きていて感じたことを気の赴くままに書いていきます

夜間飛行

 

真夏日が続く休日の朝方。前日早めに寝てしまった私たちは早朝覚醒した。ちょっとこれは寝れないな、と思って、二人して散歩に繰り出す。朝5時の外気は暖かくて、歩くとじわじわと汗をかいていく。連日の暑さで朝も気温が下がらないのだ。流れ落ちるわけではないけれど、じっとりと肌を湿らせる。風でもあれば気持ちいいのだろうけど、風は吹かない。

昼夜関係なく交通量の多い、日本の動脈となっている環状線も、休日の朝は往来が少なくて静かだ。

大通りの交差点の信号を渡ろうとすると、そこには朝焼けと空を斜めに縦断する飛行機雲が幻想的な風景を作り出していた。温いアスファルトの上を這うようにして、地表に依存して移動するしかない私たちは、空を飛ぶことへの憧れを募らせる。

明るくなっていく空と 伸びる飛行機雲を見て、相手はサン=テグジュペリの話を始めた。夜間飛行という本があってね、僕も読んだことないんだけど、という前置きで始まった。私も昔、星の王子さまを薦められて、読まなかった過去があるので人のこと言えないと思いながら話を聞く。サン=テグジュペリパイロットとして活躍しながら小説を書いていたこと。最後は飛行中に消息を絶ったことを教えてくれた。もしかしたら一般教養なのかもしれないが、いつも狭い世界にこもりがちな私は知らなかった。なんだかロマンあふれる最後だな、と思って強く印象に残った。

 

夜のあいだは暗くて曖昧だった天と地の境目も、だんだんと明るくなって、手が届かないよと知らしめられる気がした。

 

  

突然だが、私には歯の治療を途中で断念した箇所が二つある。 なぜそんなことになっているかというと、一度目は予約の時間を忘れていて気まずくなり行かなくなってしまった。その後引越しを経た二度目は、型とりが下手すぎて1箇所に5回も6回も型をとり、30分以上も口を開けっ放しにしたため、顎が痛くて嫌になっていかなくなってしまった。 そんなこんなで放置していた歯だったが、とうとうこの間、一箇所の詰め物が取れた。型を何回もとられた方だ。型とりだけではなく、詰め物のつめ方もちょっと甘く、歯間ブラシを使うとポロっと落ちてしまった。(とはいえ二年近くも放置していたため、私のほうにも問題はあるのだろう)私は以前の教訓から、予約なしで思い立ったらいける歯医者に通っているため、予約は問題ない。しかしこういうときに限って、いつも持ち歩いている歯ブラシセットがない。家から徒歩10分ほどの歯医者なので、自宅に帰って夕飯をさっと済ませてから急いでいけば受付時間には間に合うかな…。そう思って帰ったものの、当初の計画では間に合わないことが判明し、あえなく断念。私はその日、穴の開いた歯にご飯を詰まらせて食べた。

 

その日の私は不機嫌だった。

次の日は休みで予定があって、一緒に行く人を前の日の夜、家に来るのを待っているという状況で、やりたいことをやりたいようにやって過ごしていた。

相手は飲み会で、酔っぱらって夜遅くに家へきて、シャワーだけ浴びてさっさと寝てしまった。実はその前にその人が飲みすぎることについて、ほどほどにしておいてほしいな、とお願いしていたのだが、私の言ったことはどこへやら。覚えてないのか忘れてしまうのか納得してないのかどうでもいいのか、とにかく私が約束していたつもりのことは破られて不機嫌になった。

イライラしたので、相手が買ってきたミミガーを、相手の口に入れてやろうかと思った。しかし、もし窒息したら…?と考えると怖くてできず、試しに人差し指を口に入れる。(今となっては、なぜそんなに、口に入れることにこだわったのか分からない。)

しかし、入れた瞬間、激痛が走る。噛まれたのだ。めちゃくちゃ痛い。30秒ほど噛まれて、指を何とか引き抜くと、結構きれいに歯形がついていて、私は自業自得なのに、痛すぎてちょっと泣いて寝た。

引っ越して半年の記録

そろそろ引っ越しして半年になる。

仕事へ行って、帰ってきて、自炊をしたり、洗濯したり、掃除をしたりして至って普通の生活を営んでいる。人を呼んだり、遊びに出かけたりして、普通に楽しんでいる。

普通の幸せには強度がある。早回しでなくてもいい。じれたり、ドギマギすることはあるけれど、愚直に自分の幸せの形を探っている。そうやって、一歩ずつ階段を登っている。

私は、自分が本当に何を望んでいるのか、感情の上での良い、悪い、好き、嫌いを定義するのが苦手で、カウンセリングに行っていたときに相談したことがあったんだけど、結局カウンセリングの期間内には答えが見つからなかった。そこでカウンセラーさんに最後に言われたのは、人と関わりを持つうちに、私に様々な声を掛けてくれたり、話をしたり、聞いたりすることでだんだんと分かってくるでしょう、とのことだった。それを聞いて、どこに行ってもうまく馴染めていない気がする私は、そんな場所と人があるのだろうかと思った。でも実際には、そういう環境に身を置くかどうかは自分次第だし、居なければ探せばいい。また、それをどの程度聞き入れ、糧にしていくのかも自分次第なのだ、と今は感じている。一緒にいてくれる人がいて、色々と声を掛けてもらえて、こっちからも話しかけて、そんな他愛のないキャッチボールができるのは、本当に幸せなことだと思う。たまにボール球を投げてしまうこともあるけど、それもご愛嬌。

現状、〜すべき、〜しなければならないと無意識的に自縛していて、それは今までかけられた言葉の呪いなのだろう。それらを解放できるようにしていくのが今後の課題といえば課題なのかもしれない。

とりあえず、楽しいことを楽しんで生きていきたいな、と思う。

2017年GWの思い出

ゴールデンウィークの思いでは色々あるんだけど、覚書しておく。

GW最後の土日を目前に控えた夜。

ゴールデンウィークの終わりを世界の終わりに例えて二日後に世界が終わることがわかったら何をするかという話になった。

相手は今まで出来なかったことを思う存分やりたい、というのに対し、わたしはいつでもできる好きなことを淡々として終わりを迎えたい、と話をした。具体的にいうと、日高屋に行って最後に中華そばを食べたい。そういうと相手はちょっと驚いて、その日はお互いのやりたいことに、あーだこーだ言って楽しく話をし、眠りについた。

 

翌朝、目が覚めてベットでちょっとダラダラしてたら相手も起きてきたので、今日なにしよっか。と話しかける。とりあえずみそ汁でも飲んでから考えようか、と続けて、私はみそ汁の具を何にするか思案する。ねぎ、わかめ、油揚げ。今うちにあって、すぐに出来そうなものが頭をめぐる。この前、相手が用意してくれたみそ汁は美味しかった。私は一人だと、つい手軽なインスタントに走ってしまうが、二人なら作った方がおいしいし、作った分は飲み切れる。そう考えてベッドから出ようとすると、相手が口を開く。いや、日高屋いこっか。そう言われて私が同意しない訳がない。私は嬉しくて大喜びし、二人して急いで準備して日高屋へ歩いていく。外は日差しが強く暑い。

日高屋にはもう冷やし中華の看板が掲げられていた。

最初から中華そばに行かずに、お互いが一人で来た時に頼むメニューを注文する。レモンサワー、おつまみ唐揚げ、餃子、おつまみ3点盛り。休みなので朝から飲む。おいしく楽しく飲むために生きているのだから。

そして〆の中華そばはハーフサイズにした。あっさりしていて、食べやすいからぺろりと平らげる。私が日高屋の中華そばを好きな理由は、あともうちょっと食べたいと感じるところにあるのかもしれない。もしも世界が終わるなら、私はここで普通の中華そばをおなかいっぱい食べたかもしれないが、今は持続性のある世界に生きていると思っているので控えておく。体重がどうなっているか分からないので気になってしまうが、休み中は考えないようにしたい。

帰りはスーパーに寄って、ご飯の買い物をする。普通のことも一緒にやってると楽しい。ルーを使った普通のカレーを一緒に作ろうと材料をかごに入れていく。豚肩ロースのかたまり肉も、安かったのでかごに入れてしまう。これは焼き豚にする。

家に帰ってお酒を飲みながら焼き豚を仕込む。油を入れて肉に焦げ目がついたら、醤油、みりん、酒を1:1:1で入れる。さらにねぎの青いところと生姜を入れる。それからコトコト20分。肉が浸かっていなかったので、裏返して、ついでに冷凍していた大根もいれた。大根は浸かりすぎで味が濃かったので、次作るときには下茹でしてから入れると思う。

 

遺言

北朝鮮のミサイルが飛んで来たら、これは遺言になるかもしれない。

 

病的に追い詰められたような怖さは感じないけれど、最後の晩餐になるかもしれない今晩は、ラーメンと漬物と豆腐を食べた。別に好きだからではなく、とりあえず家にあった、消費しておかないといけないものだった。もしも明日が無事過ぎ去った時に後悔しないように。

万が一ミサイルが飛んできて生き残ったとしても、外は無事かどうかは分からないので念のため洗濯をした。うちは洗濯機が外にあるのだ。本当はシーツもラグも根こそぎ洗いたいが、乾燥をのんびりと待つことはできないので諦めてそのままにしてある。無事だったら連休中には洗いたい。コインランドリーへ行ってシーツと毛布と枕カバーとラグを放り込んでいきたい。そしてコインランドリーにおいてある、巻がとびとびになった漫画を読んで、あいだの巻を想像してうなりたい。きっと読むまで答えは出ないし、そもそも本当に巻がとびとびになっているのかどうかは知らない。

最近は以前と比べたら、全体的に心がのびのびとしている。細かい苛立ちや、どうしようもなさは感じることはあるけれど、前よりはずっと分量が減ってきた。今だって、遺言というタイトルでブログを書いているけれど、決して死にたいとは思っていないし、平和な明日を生きていたいと思っているし、無事迎えられた明後日に私アホなこと書いたなーと恥ずかしがりたい。今まで頑張らないと生きている資格がないのではないか、という思い込みに精神を押しつぶされそうになって、死にかけながら努力したこともあったけど、それを辞めた今は今で結構幸せなのだ。その幸せを明日も明後日も来週も来月も感じていたい。最後の晩餐、なんて言わずに明日も明後日もおいしいものを食べたいし、飛んだ漫画の間に思いを馳せたい。